お知らせ


2019.09.09 令和元年の「ひょうげ祭り」は、9月8日(日)多くの皆様のご支援とご協力頂いた方々の御蔭を

       持ちまして、無事お祭り行事を終えることが出来ました。本当にありがとうございました。

       今後、当日の模様など写真を交えて掲載して参りますので、よろしくお願いします。 

2019.08.19 ひょうげ祭りのアクセス(バス時刻表)を以下に掲示します。尚、高松市のひょうげ祭り御案内

       ご覧ください。

2019.08.09  今年度(令和元年)も、写真コンテストを実施致しますので、奮って応募をお願いします。


2109.08.01 今年のひょうげ祭りは、令和元年9月8日(日曜日)午後2時出発です。今年もやりまっせ!!



2019.02.04 2月のコミねっとTV(ケーブルテレビ(CMS121ch))は、浅野校区のひょうげ祭りが取り

      上げられていますので、是非ご覧ください。

2018.09.09 平成30年9月9日(毎年9月の第2日曜日)に開催された天下の奇祭「ひょうげ祭り」は、秋の長雨

      にも負けず、約100人が派手な化粧と飼料袋製の衣装を身にまとい、おどけながらの神輿渡御は、

      最後の新池への走り込みまで、住民や見物客らを楽しませてくれました。ありがとうございました。

      また、この事は9月11日の四国新聞でも紹介されました。


2018.07.26 保存会会長の植松一夫さんが7/25の四国新聞(地域総合、あの人この人)で

                      紹介されました。

      今回の台湾桃園市のイベント出演して「祭りを楽しもうという気持ちは同じ」

      と、台湾の人々と心を通わせてきた、また「活動の価値や重みを再認識できた

      」とのこと。

2018.07.26 台湾でのひょうげ祭り披露の模様が、YouTubeに全体版(台湾旅行社

      とひょうげ祭り版(桃園市広報)の2本で投稿されています。

 

2018.07.14 香川町浅野地区に江戸時代から伝わる、高松市の無形民俗文化財「ひょうげ祭

      り」が、台湾・桃園市のイベントに招待され、海外で初めて「天下の奇祭」と

      して知られる祭りを披露した。桃園市民と一緒に市内を練り歩き、集まった

      見物客を楽しませた。保存会の植松会長は、「海外で披露するのは初めてだっ

      たが、台湾の人々が祭りを楽しんでくれて、とてもうれしかった」とのこと。

      2016年に高松市と交流協定を締結したのをきっかけに、イベントパレード

      への出演依頼が寄せられた。<四国新聞 抜粋>

 


ひょうげ祭り

 

ひょうげ祭りは、既に香川県や高松市などでも紹介ページを有しておりますので、そちらも参照ください。

※香川県ひょうげまつり

※高松市ひょうげまつり

※香川町ひょうげ祭り保存会

※WiKipedia

 

以下に、香川町の民俗⑤「むらむらのまつり」から「ひょうげ祭り」を引用(編集)します。

 

(1)祭りのあらまし

黄金色に実った稲穂がさわやかな秋風に揺れるころ、香川町浅野の高塚(たこづか)山にある新池神社(池宮さんともよぶ)を中心にくりひろげられる祭り、それがひょうげまつりである。祭日は旧暦の八月三日である。

この祭りは古くから浅野地区の人たちの手によって継承されており神輿の渡御に使われる神具(一式が県指定をうける)はすべて農作物や家庭用品などを中心としたもので整えられている。

供侍(ともざむらい:神輿の巡幸に参加する供奉人(くぶにん))となる人たちはそれぞれに工夫をこらした仮装をし、色あざやかな顔ごしらえをする。神幸の順路は浅野高塚山の頂上から東赤坂ー坂下ー道端ー赤坂ー丸山ー新池(香川町大字川内原)までの二キロ余りで、その間をひょうげてねり歩く。

ひょうげるとはおどけるとか滑稽というくらいの意味であり、ひょうげまつりという呼び名もここからつけられたものであろう。この祭りについては、新池を築いた人の功績をたたえるとか、豊作の祈願ないしは感謝などと意義図けられているが、香川町内の一部には古くから地蔵盆の日に造り物といって、野菜や家庭用品その他で人形などを作って見せる風習があった。それがいつの頃からかこの祭りにも採り入れられたものであろう。

 

(2)まつりの起源

まつりの起源はさだかではないが、新池築造の主人公といわれる矢延平六(やのべへいろく)の事略(じりやく)や土地の言い伝えなどから考えて、約三百余年前のことかと思われる。かつて浅野地区を八地区の八頭組に分けて毎年一組ずつで行っていた。浅野土地改良区、県および町の助成、町商工会、浅野農協などの後援もあり、郷土の文化遺産が多くの人々の手によって支えられ受け継がれてきているのである。

(中略)

 

(3)新池築造の伝説

この池は寛文年間(一六六一~一六七二)に藩普請として、藩の費用で築造されたものと伝えられ、次のような伝説が残されている。

「もともと、浅野村の土地は高低がはなはだしくかつ荒廃地も多かった。藩では開墾はさせたけれども水の便が悪く灌漑用水には非常に困っていた。これを見かねた藩では矢延平六らに命じて溜池をつくらせることになった。平六は大河原某および篠原某らと話し合い、川東上村の西を流れている香東川の水を引いてくることにした。暗夜にちょうちんや松明によって人々を遠く離れたところから見通して土地の高低を測定し、多くの労力と歳月を費やして、遂に川内原に面積二十六町歩にわたる新池を築いた。平六と大河原、篠原の両氏は三谷村(高松市三谷町)犬の馬場に住んでいたので、この新池の水は犬の馬場方面にも引かれるようになった。

農民たちの喜びはひとしお大きかったが、ここに一大事が起こった。

それは平六がこの池を築いたのは『高松城を水攻めにするためである。』と領主にざん言をした人があり、それによって平六は裸馬に乗せられて阿波の国に追放されてしまった。ある年の旧暦八月三日のことであった。

平六を慕う地方の農民はその行方を求めたが、遂にその姿を探し出すことができなかった。そこでせめてそのご恩に報い、これを後世に伝えようと新池を見下ろすことができる高塚山の頂上に小さな祠を建てて、神様としてこれを祀った。これが新池神社である」という。

 

今年もまたひょうげまつりの季節がやってくる。夏の暑さとたたかいながら泥に足を踏み入れたかいがあって、稲穂が重たそうに頭を垂れている。その中を素朴で土のにおいのする行列がえんえんと続く。祭りを行う人も見る人もすべての人が恍惚とした気分にひたっている。

父から子へ、子から孫へと受け継がれてきたこの祭りを、こよなく愛し育ててゆきたいものである。

 

                                                 以上