この度、毎年の行事である浅野地区の「むらむらの祭り」の主役である「獅子」を取り挙げ、その活動記録を当ホームページで紹介してゆきます。
この記事の掲載に当たり、以下の著作物から主要な「獅子舞」と浅野地区で有名な「ひょうげまつり」を引用(編集)しましたので、紹介します。
著書:香川町の民俗⑤「むらむらのまつり」
編集 :香川町文化保存会歴史民俗調査部
発行 :香川町文化保存会
発行日:平成元年三月三十一日
あいさつ
黄いろく色づいた稔りの田園の彼方から、「コンコンチキチン・・」と獅子の囃子が聞えてきます。今日は村の鎮守のお祭りです。お母さんから貰ったお小遣いを握りしめて、隣のM君と一目散にお宮にむかって駆けて行きました。お宮の前は、あちこちの部落から集まった獅子組で大変な賑やかさです。しばらく獅子舞を見ていると、やがて御輿の渡御がはじまり、槍や鉾や挟み箱の行列が進みはじめました。M君と二人でお旅所までついてゆくことにしました。以上が遠い昔の私の幼い頃の想い出の一端です。
今回、香川町文化財保存会歴史民俗調査部さんのご努力により、「むらむらの祭り」と題して五回目の発刊の実現を見るに至りました。遠い昔より郷土に伝わる誇り高い宗教と文化行事の実態を将来の郷土の為に大切に調査保存し、更に守り続けていきたいと存じます。
平成元年三月三十一日 香川町文化財保存会 会長 藤本正直
1.香川町の獅子舞とその周辺
讃岐の獅子は地域的な特徴から東讃(大川、木田)、中讃(香川、綾歌、仲多度)、西讃(三豊)に大別できるが、香川町の獅子は東讃と中讃の境界に位置している。双方の特色が共に見られるのが、この地の特色といえようか。下の敷物を敷いてつかう獅子は香川町が東限であり、木田郡以東では庵治を除いてほとんど見られない形式である。また、大野あたりで見られる太鼓を乗せる台を「屋台」と呼ぶのは木田、大川地方の様式で、香東川以西では高松市川岡近辺を除いてほとんど見られない。
また獅子の流儀について見ると、香川町内に伝承されている流儀のうち、「喜多流」は香川郡の他では聞かれない流儀であり、「五段」「みたち」は当地方より東ではみられない使い方である。このように香川町の獅子は東讃と中讃との接点に位置する獅子といえるようである。
神楽についても当地方が東限で、ここより東ではまったく行われていない。(中略)
獅子は祭りの華である。カンカンとかん高い獅子鉦の音は祭りの気合いをもりあげてくれる。一時はすたれていた獅子も、ふるさと再認識の気運などで盛りかえし、宮の森もにぎわうようになってきた。町内の獅子組をあげる(休止しているところも含む)。
◇浅野の獅子組
東赤坂、赤坂上、赤坂下、横岡上、横岡下、西荒(二組)、安西荒、上万塚、下万塚、坂下、
宮の前(子供獅子)、久保、池の側、実相寺、船岡(大獅子)
◇獅子の流儀
喜多流、みたち、みたて、五段などの使い方がある(みたちとみたては同じ流儀かとも思われるが一応別に
しておく)。喜多流は浅野に多く、実相寺がそのはじまりだともいわれる。
東赤坂の獅子は、昔は五段だったが、複雑で大変なので百年ぐらい前に喜多流にかえたという。
喜多流の獅子にはカミとシモのつかい方があるというが、いまはもうわからなくなっている。
喜多流の獅子の曲にはナガシ(頭をもちあげて正面を向く)-ノボリ(頭をあげない、正面を向く)-
休む-ナガシ(扇の舞ともいい、キョウクチが杓と扇子を持って四隅をながす。
獅子はぐるりをまわる)-ナガシ-ノボリ-ナガしてしまい、という順で、同じナガシでもすこしづつ違う。
一番むずかしいのはノボリクダリをはっきりさすことで、ノボリは耳をたて、クダリは耳をねさしもってつ
かう。なお大獅子(船岡)も喜多流であるが、曲はだいぶ短くしている。
五段の獅子は浅野(横岡、西荒)や東谷(一万)、川内原にもあるが、大野、川東方面に多く伝わっている。
五段でもねぜり五段であり、その名の通り低く低くつかうのである。
五段はこのあたりから西へ香南、綾南、綾上にかけて多いたうかい方であるが、この地域の五段は岩崎のが
古いといい、ここから習ったという組もある。西荒の獅子は昔は畑田(綾南町)の方から習ってきた立ち
五段だったが、後に岩崎の獅子をとり入れてねぜり五段にかえたという。(中略)
◇獅子の様式
獅子頭は塗り獅子と毛獅子がある。大野、浅野方面は塗り獅子が多く、川東以南は毛獅子が多い。獅子の
使い方とも関係しているようだがよくわからない。
三豊郡鳥坂(三野町)の丸岡製のものが多いようである。ユタン(獅子の胴体になる布)は武者絵を描いた
ものが多い。「扇の的」や「楠正成」、「八幡太郎」など勇壮なものである。
他には模様のものもみられる。ちりめん地が多い。鳴物は鉦、太鼓で、笛はみられない。鉦二、太鼓二という
のが多いが、最近では数が増したところが多く、ことに五段の獅子のところは鉦が多く、また大きくなって
いった。五段の獅子は鉦が獅子にあわすが、喜多流やみたち等の流技は太鼓に獅子があわすのでむつかしい
という。太鼓にはオンブチ、メンブチといってたたきかたの違い(強弱)があり、ブチ(桴:バチ)の持ち
方も左右で異なる(川内原)。
下の敷物は五段の獅子は必ず使用するが、他はそれぞれである。ござで八畳敷が多い。獅子につく子供を
キョウクチという。組によって二~四人で、男女を問わない。川東や川内原のように女の子が務めるという
のは香東川の中~上流地域の特色のようである。(中略)
◇大獅子のこと
船岡の大獅子は昔は下浅野大獅子と呼んでいたという。この獅子は天保時代に船岡の向井栄吉氏のお爺さんが
絹地を漆で貼ってこしらえたもので、はじめに雌をこしらえ、次に雄を作ろうとして亡くなったといわれて
いる。大獅子のユタンにはハリボウを八本入れる。真竹ではいかず、孟宗竹の身の入ったぶんを使用した。
大獅子の使い方は喜多流であるが、少々違う使い方で、曲も短くなっている。一人が数分ぐらいしかもてぬの
で、次々と交代して使った。稽古も口立てで、「右からのぼって、下がって、左行って云々」と口でいうだけ
で、当日になってはじめて頭を持っていた。昔、松前のお爺はんという人はこの大獅子を一人で一曲使い切っ
たそうである。
馬の背の大獅子は太鼓と半鐘ではやす。ここの使い方もちょっとかわった使い方(囃子)である。
2.ひょうげ祭り
ひょうげ祭りは、既に香川県や高松市などでも紹介ページを有しておりますので、そちらも参照ください。
以下に、香川町の民俗⑤「むらむらのまつり」から「ひょうげ祭り」を引用(編集)します。
(1)祭りのあらまし
黄金色に実った稲穂がさわやかな秋風に揺れるころ、香川町浅野の高塚(たこづか)山にある新池神社(池宮さんともよぶ)を中心にくりひろげられる祭り、それがひょうげまつりである。祭日は旧暦の八月三日である。
この祭りは古くから浅野地区の人たちの手によって継承されており神輿の渡御に使われる神具(一式が県指定をうける)はすべて農作物や家庭用品などを中心としたもので整えられている。
供侍(ともざむらい:神輿の巡幸に参加する供奉人(くぶにん))となる人たちはそれぞれに工夫をこらした仮装をし、色あざやかな顔ごしらえをする。神幸の順路は浅野高塚山の頂上から東赤坂ー坂下ー道端ー赤坂ー丸山ー新池(香川町大字川内原)までの二キロ余りで、その間をひょうげてねり歩く。
ひょうげるとはおどけるとか滑稽というくらいの意味であり、ひょうげまつりという呼び名もここからつけられたものであろう。この祭りについては、新池を築いた人の功績をたたえるとか、豊作の祈願ないしは感謝などと意義図けられているが、香川町内の一部には古くから地蔵盆の日に造り物といって、野菜や家庭用品その他で人形などを作って見せる風習があった。それがいつの頃からかこの祭りにも採り入れられたものであろう。
(2)まつりの起源
まつりの起源はさだかではないが、新池築造の主人公といわれる矢延平六(やのべへいろく)の事略(じりやく)や土地の言い伝えなどから考えて、約三百余年前のことかと思われる。かつて浅野地区を八地区の八頭組に分けて毎年一組ずつで行っていた。浅野土地改良区、県および町の助成、町商工会、浅野農協などの後援もあり、郷土の文化遺産が多くの人々の手によって支えられ受け継がれてきているのである。
(中略)
(3)新池築造の伝説
この池は寛文年間(一六六一~一六七二)に藩普請として、藩の費用で築造されたものと伝えられ、次のような伝説が残されている。
「もともと、浅野村の土地は高低がはなはだしくかつ荒廃地も多かった。藩では開墾はさせたけれども水の便が悪く灌漑用水には非常に困っていた。これを見かねた藩では矢延平六らに命じて溜池をつくらせることになった。平六は大河原某および篠原某らと話し合い、川東上村の西を流れている香東川の水を引いてくることにした。暗夜にちょうちんや松明によって人々を遠く離れたところから見通して土地の高低を測定し、多くの労力と歳月を費やして、遂に川内原に面積二十六町歩にわたる新池を築いた。平六と大河原、篠原の両氏は三谷村(高松市三谷町)犬の馬場に住んでいたので、この新池の水は犬の馬場方面にも引かれるようになった。
農民たちの喜びはひとしお大きかったが、ここに一大事が起こった。
それは平六がこの池を築いたのは『高松城を水攻めにするためである。』と領主にざん言をした人があり、それによって平六は裸馬に乗せられて阿波の国に追放されてしまった。ある年の旧暦八月三日のことであった。
平六を慕う地方の農民はその行方を求めたが、遂にその姿を探し出すことができなかった。そこでせめてそのご恩に報い、これを後世に伝えようと新池を見下ろすことができる高塚山の頂上に小さな祠を建てて、神様としてこれを祀った。これが新池神社である」という。
今年もまたひょうげまつりの季節がやってくる。夏の暑さとたたかいながら泥に足を踏み入れたかいがあって、稲穂が重たそうに頭を垂れている。その中を素朴で土のにおいのする行列がえんえんと続く。祭りを行う人も見る人もすべての人が恍惚とした気分にひたっている。
父から子へ、子から孫へと受け継がれてきたこの祭りを、こよなく愛し育ててゆきたいものである。
以上
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香川町の民俗⑤
資料:浅野舟岡大獅子 (保存会へはこちらから)
昔から滕(ちきり)神社大祭の御輿渡御の先頭を司り、雄大にして勇壮に舞う姿は「浅野の暴れ獅子」の異名をとり、滕神社大祭の名物として、人々から愛され親しまれています。
この舟岡大獅子は今より一三〇年余り前(安政年間・一八五四年)、浅野舟岡の向井富次氏によって人々の融和を図るために製作され、岡の上・西舟岡・東舟岡・舟岡新町の人々が滕神社大祭の先頭に立ち、魔除けと奉納のため、代々継承してきた由緒ある大獅子であります。
獅子頭は、絹布を膠(にかわ)で幾重にも張り合わせ、その上から漆(うるし)を何回となくな塗り重ねて仕上げている木塗りの獅子頭で、爛々と輝く目や化粧には金箔等をふんだんに使用し、髪の毛にもこれまたふんだんに馬の毛を使い、全体に丸みをおび、髪が長くて美しい雌獅子であります。
さらには、当、大獅子には曲打が付いていて、鐘・太鼓の音に合わせて機敏に踊る可愛らしい姿にも大変人気があります。
<大獅子の記録>
・頭の寸法 高さ 六〇・〇cm 幅 七五・五cm(八四・〇cm)
奥行 六九・〇cm 重さ 一九kg(二三kg)
・油単寸法 長さ 一〇・五m 幅 四・五m
重さ 二四・五kg 尻尾 一・五m
・張り竹 長さ 五・五m(二枚張り 二本・三枚張り 四本)
・鐘の寸法 内径 四二・二cm(三基)
・太鼓の寸法 直径 三八・〇cm(二基)
直径 四四・五cm(二基)
・法被 大人用(一一六着) 子供用(四一着)
・人員 六〇人以上
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